★ヘリコイドラッピングの概要と効果★
出品中の個体に施しているヘリコイドの研磨は、現在、フォクトレンダーやツアイスなどの高級なマニュアルフォーカスレンズを国内生産しているCOSINAが自社のハイエンド交換レンズのすべてに施しているラッピング(Lapping)を参考にした方法で行っています。これまで、商品説明中の【分解整備の内容】でヘリコイドの研磨剤による研磨とだけ記述していましたが、この方法が耳慣れないものだったせいかヘリコイドの研磨や研磨後の経年劣化に対する不安からと思われるご質問をこれまで複数いただきました。そこで、新たに項目を起こしてこれらの不安を解消するための情報提供をすることにいたしました。詳しくはこの後に説明しますが、ヘリコイドラッピングにはヘリコイド部分の経年劣化をおさえる効果があります。
【研磨剤によるヘリコイドの研磨の概要】
●COSINAのヘリコイドラッピング
ラッピングとは研磨方法の1つで、ラッピング研磨またはラップ研磨とよばれるものです。COSINAで行われているヘリコイドラッピングについては自社のHP上で一般に公開されていて、以下をクリックすると見ることができます。
●出品するレンズに使用しているラップ剤
COSINAのHP上で、ラップ剤(研磨剤)についてはその画像のみが紹介されていて、調合内容については公開されていません。そこで、ラップ研磨をネット検索してみると複数の専門企業が関連情報を公開していました。そこで、ラップ研磨の特徴や方法、そして、ラップ剤の種類とそれぞれのラップ剤が対応する研磨対象等について調べてみました。その結果をもとにヘリコイド研磨に使用するラップ剤をいろいろなパターンで準備し、試行錯誤を繰り返しました。その結果、十分に実用的なラップ剤を得ることができ現在に至っています。試行錯誤の過程では主に以下のの2項目について点検しました。
(1)研磨後の溝の表面の状態を拡大して観察し、ヘリコイド内に汚れ・こびりつき・傷によるめくれ上がり(バリ)などが除去されていること
(2)ヘリコイドにグリスを塗布して組み立て、実際に回転させた時にざらつき・トルクむら・反転時の遊びなどが指先に違和感として伝わってこないか
●選択したラップ剤とその性質
ラップ研磨に使用されているラップ剤には酸化アルミニウム・炭化ケイ素(カーボランダム)・ダイアモンドスラリーの3種が紹介されていました。私はこの中から最も硬度が低く金属から樹脂まで対応する酸化アルミニウムを選択しました。見た目は白色の微粒子です。酸化アルミニウムはアルミニウム製のヘリコイド部品の表面に自然形成される酸化被膜と同じ物質です。そのため、アルミニウムの面を削り取る力は弱く、ヘリコイドに付着した汚れや、アルミニウムの表面にできた傷によるめくれ上がりなどを選択的・効率的に除去することができます。もしもアルミニウムの表面層を削り取る必要がある場合は、より硬度が高い炭化ケイ素を使用すると作業が効率的に進むはずです。
●実際のラップ研磨の進め方
COSINAのHPに記述された方法と同様です。ヘリコイドの溝全体にラップ剤を塗布してヘリコイドを回転させ、回転を何回か往復させていくとざらつきなどの違和感が減少し、明らかに回転がスムーズになっていくことが指先で実感できます。そのうちに手ごたえの変化がなくなりますのでその時点で研磨を終了しています。次に洗浄作業を行いラップ剤をきれいに洗い流します。
乾燥後は溝の状態をルーペで確認し、除去可能な残留物がある場合は、再度軽く研磨を行います。こうすることで必要以上に研磨をし過ぎないようにしています。以下のリンク先に私が行ったラップ研磨で残留物が除去されていく過程を記録した拡大画像を置きました。
この比較画像はヘリコイドグリスが固化して回転させることもままならない状態だったヘリコイドの部分の整備状況を撮影した画像の部分拡大です。最終的に④ではヘリコイドの底部がきれいになっていることがわかります。
画像1 未処理(固化したグリスがこびりついた状態)
画像2 歯ブラシを使用した洗浄後(溝の底に固化したグリスが多く残っている状態)
画像3 1回目のラップ研磨後(固化したグリスがおおむね取れた状態)
画像4 2回目のラップ研磨後(残っていた付着物が取れて研磨が完了した状態)
この比較画像を見るとラップ研磨の効果がよくわかると思います。研磨の完了後は狭い溝の底面まで異物を取り除くことができていて、底面が平滑な状態になっていることが確認できます。
●ラップ研磨後の洗浄
ラップ研磨が終了した後の洗浄は大変重要です。COSINAでラップ研磨を担当する部門の方にオールドレンズにラップ研磨を行う場合のことについて問い合わせてみました。その回答によると、COSINAでは専用の洗浄液を準備して複数の超音波洗浄機に順番に通して洗浄していくそうです。また、個人のレベルでラップ研磨を行う場合は歯ブラシを使用して中性洗剤で洗浄する方法でも問題はないそうです。ただし、水洗を十分に行い乾燥時には自然乾燥ではなくエアブローで水を吹き飛ばすことが重要とのことでした。その理由は、ラップ剤に含まれる砥粒がヘリコイド内に残ると新しいグリスを充填した後も研磨が進む可能性があるからだそうです。
●ラップ研磨のメリット
※精密研磨加工の株式会社ティ・ディ・シー(TDC)のHPから抜粋
~ラップ研磨・ラッピング研磨のメリットとしては、細かい研磨剤を用いて小さな力で除去するので、加工対象物にストレスを与えず、所望の精度を実現することができます。平滑面が求められるものにもマッチしています。加工熱による歪みもあまり発生しない加工方法と言えます。平滑面を作ることは、部品としては高精度組立を実現したり、光学特性の向上、摩擦特性の管理、防錆等の観点からも有効と言えます。~
私が行っているラップ研磨でもヘリコイド鏡筒を重ねて擦り合わせる際には、回転させているだけで無理に力を加えて擦り合わせるようなことはしていません。ラップ剤がグリスの代わりにヘリコイドの溝内部に充填され、ヘリコイドを回転させるとヘリコイドの溝の間で研磨剤の粒子が浮遊して動き回りながら異物を削り取っていくような感覚です。
●ヘリコイドのかみ合わせを利用したラップ研磨
ラップ研磨を行う場合は研磨したい物体と形状がピッタリ重なり合う面と擦り合わせる必要があります。例えば凸レンズの表面を研磨する場合はその面と曲率が逆になった凹面の部材が必要になります。ヘリコイドの場合は組み合わせるヘリコイドが互いの溝の形状を補う形状で精密に作られていますので、組み合わせるヘリコイド鏡筒どうしでラップ研磨を行うことでこびりついた汚れを等を効果的に除去することができます。
このヘリコイドの工作精度について調べていたところ、『精密機械』という書籍の記事として「精密工作法の実施例 写真機工業(1)」に掲載されていたものに詳細な説明が出ていました。カメラレンズの鏡筒ヘリコイドの製造時に使用するネジ切装置が5タイプが表にまとめられていて、それらのネジ切り精度は7μm~から20μmとなっていました。 これらの装置で刻まれたヘリコイドの溝は、グリスが入り込む空間ができるようにヘリコイド間で一定の間隔ができるように設計されています。この間隔は端から端まで高い精度で刻まれていて、外部から力を加えることで溝の中の向かい合ういずれかの面同士は互いに接触させることができるようになています。そのため、グリスを塗布する前にヘリコイド鏡筒をねじ込んだ状態で前後方向や横方向に押し引きすると少し動くことが確認できます。(2つのヘリコイド鏡筒を最後までねじ込んだ後、前後に引っ張った時と押し込んだ時の長さの差を電子ノギスで測定したところ0.2㎜でした)また、ヘリコイドの溝の底面も凸部と凹部の表面同士も接触できるようになっています。そうしないとヘリコイドの溝同士が互いにくさびを打ち込むような状態になり、最悪の場合は動かなくなくなるはずです。もしも、ヘリコイドの溝に「異物が入り込む」、「こびりついた汚れがある」、「ヘリコイド自体に削れなどの凹凸ができる」などの原因で、許容範囲を超える大きさのものがどこか1か所でもあると、ヘリコイドの回転時にその部分の引っ掛かり感触として手に伝わってきます。
【金属の腐食について】
金属の腐食という言葉には、(1)金属の表面が酸化するすること、(2)金属の材質が劣化して当初の形状を保てなくなることのどちらも含まれます。カメラレンズのを使用する通常の場面で(1)は起きていますが(2)が起きる可能性はほとんどないようです。
●アルミニウムの腐食
アルミニウムの腐食についてはネット検索すると多くの情報が得られますが、要点をまとめると以下のとおりです。
1 アルミニウムの表面には酸化アルミニウムの被膜が形成され、この皮膜は(2)の腐食に対する耐性が強く、屋内環境では極めて安定しています。酸化被膜が傷などで剥げてもすぐに再形成されます。
2 酸・アルカリなどに対してpH4~pH8 の領域では不動態化した酸化皮膜が形成されているため、実用上良好な耐食性を有しています。
3 屋外で長時間放置した場合は白サビが発生します。これは雨水に含まれる塩分などの影響で酸化被膜が劣化し、空気や水に含まれる水素や酸素と結合し、白い水酸化アルミニウムが形成されたことによるものです。
4 屋外に放置されたアルミニウムの表面に銅や真鍮などの異種金属と接触している面があると、雨水などが接触面に入り込み異種金属接触腐食が発生しアルミニウム側が腐食します。
・塩化物イオンによって発生する局部腐食
3・4は酸化被膜が消失することで発生しますが、これらの腐食は局部腐食とよばれるものです。そして、その発生の原因は塩化物イオンとされています。局部腐食は何らかの原因でできたアルミニウムの表面の穴や隙間などに塩化物イオンが蓄積される場合に発生します。例えばアルミニウムの表面に傷が付き、その中に塩分を含む雨水などが繰り返し入り込むことがあると、乾燥するたびに溝の奥に塩化物イオンのもとになる塩分が個体として蓄積されます。それがまた濡れると塩分が電離して塩化物イオンの濃度が上昇していきます。こうなると腐食がさらに進み傷が深くなる。そして、その溝の中の塩化物イオン濃度がさらに上昇するという悪循環に陥ります。
・局部腐食がヘリコイドに発生する可能性は0か?
カメラレンズを通常使用する環境で局部腐食が発生する可能性はほとんどないと考えられます。もし起きたとしたらそれなりの原因があります。例えば、水没したことがあり(特に海水中)その水の中に含まれている塩分がヘリコイド表面にあるこびりつきの隙間や傷の中に入り込む。あるいは、塩分を含む微細なチリが入り込むこなどのことが繰り返され、塩化物イオンの濃度が上昇する現象が考えられます。
いずれにしても、局部腐食が始まるきっかけは酸化被膜が破壊されたあと、塩化物イオンの作用で生成された水酸化物イオンとアルミニウムが結びつき水酸化アルミニウムが生成されてしまうことです。このことから考えてもラップ研磨により傷による凹凸を軽減し、溝の内部にたまっている異物などを除去することは有効です。局部腐食の発生原因から考えて正常な状態で入手したレンズに局部腐食が発生する可能性はかなり低いと思われます。
●銅の腐食
ヘリコイドに使用される銅や真鍮(銅と亜鉛の合金)なども表面の酸化物を除去するとすぐに酸化が始まり酸化被膜が形成されます。真鍮は銅と亜鉛の合金ですが、銅と亜鉛の化合物ではなく混合物です。そのため成分として含まれる銅が酸化被膜を作ります。どちらの金属も酸化により酸化第一銅(赤色)及び酸化第二銅(黒色)へと化学変化が進行し、色が赤から黒っぽい色に変化していきます。この酸化被膜自体はアルミニウムの場合と同様に内部を酸化から保護する働きがあります。そのため、銅もアルミニウムと同様に長期間使用するものの素材として活用されています。
・ヘリコイドの溝が長年腐食しない証拠
ヘリコイドの溝の部分はグリスが塗布されているため酸化をはじめとする腐食の進行が大幅に遅れます。その証拠として60年以上前に生産されたレンズのヘリコイドでも、グリスを取り除くと金属光沢が残っています。このことと同様に、ラップ研磨後ヘリコイドにグリスを塗布することで良好な状態が長期にわたって保たれます。このようなことからグリスがなくならない限り、また、水没など特殊な事情がない限り、操作感に影響するレベルの腐食が起きる可能性はほとんど考えられません。
・ヘリコイドの溝以外の研磨
ヘリコイドの溝以外の部分は常に空気と接しているため酸化は進行し赤色から黒色に変化してきます。また、屋外に銅や銅を成分として含む真鍮を長期間置くと、酸素以外に水素・炭素・硫黄などと化合した緑青ができます。この緑青も内部の金属を保護するほか抗菌効果があります。しかし、見た目が悪く、比較的もろいため粉のようなものがはがれてくる場合があます。ヘリコイドの溝などの動作にかかわる部分にできた場合はもちろんですが、その他の部分でも緑青は除去した方が良いと思います。緑青の原因物質の一つである硫黄はグリスに使用される場合がある二硫化モリブデンの分子に含まれています。もしも、この物質が分解されると硫黄ができます。これによる実害があるかどうかは未確認ですが、念のため現在使用しているグリスは二硫化モリブデンを含まない濁りのないタイプにしています。
また、酸化した部分は平滑性がわずかに損なわれているため、マウント内部にある絞り環の動きに連動して回転するリングなどの部品は接触部分の表面を軽く研磨しておいた方が絞り環を回す際の摩擦抵抗を減少させることができます。おそらく大量生産された部品は研磨仕上げまではしていないのではないかと思います。(真相は未確認)
動作の際に周囲の部品と摩擦が起きない部品の表面は研磨をしてもしなくても操作感には関係がありません。しかし、表面についた油分を含む汚れのこびりつきなどをラップ剤で短時間研磨をするだけで生産時の表面色に近づけることができます。酸化被膜は比較的簡単に色がとれるため厚さはかなり薄いようですが、研磨後は速やかに再度酸化が進行し、新品時からたどっててきた色の変化を数十年かけて繰り返していくはずです。