陰陽道叢書 第3巻 近世
名著出版
1992年 第1刷 1000部発行
415ページ
約23x16.5x3.5cm
函入
※絶版
陰陽道叢書第三巻の本書では、近世日本の陰陽道に関する諸論の精髄を列挙。
陰陽道史の研究書、江戸時代を中心とした近世編。
【目次】より
近世日本の陰陽道・木場明志
1幕藩体制と陰陽道
普請と作事・三鬼清一郎
江戸時代初期の土御門家とその職掌・木場明志
江戸時代における陰陽道と暦道-土御門家と幸徳井家・遠藤克己
近世土御門家の陰陽師支配と配下陰陽師・木場明志
近世陰陽道の編成と組織・高埜利彦
2地域の陰陽師
陰陽道と差別・山本尚友
土御門と「歴代組」の考察-近世陰陽道の実態・山上伊豆母
近世大和の陰陽師と奈良暦・吉田栄治郎
但馬・丹後の陰陽師・木場明志
萬歳の成立・山路興造
3陰陽道祭祀と天皇・将軍
一代一度の天曹地府祭・滝川政次郎
徳川家康の天曹地府祭都状-その正体の決定を中心に・川田貞夫
4編暦・改暦の問題
貞享補暦と宝暦改暦・渡辺敏夫
宝暦の改暦について・広瀬秀雄
収録論文解説・木場明志
【編者紹介】
村山修一
1914年生まれ 京都帝国大学卒 大阪女子大学名誉教授
下出積與
1918年生まれ 東京帝国大学卒 前・明治大学教授
中村璋八
1926年生まれ 東京文理科大学卒 駒沢大学教授
木場明志
1947年生まれ 大谷大学大学院博士課程単位取得 大谷大学助教授
小坂眞二
1947年生まれ 早稲田大学大学院博士課程単位取得
脊古真哉
1960年生まれ 愛知学院大学大学院博士課程単位取得 東海女子短期大学講師
山下克明
1952年生まれ 青山学院大学大学院博士課程単位取得 青山学院大学非常勤講師
【執筆者紹介】(掲載順)
木場明志
1947年生まれ 大谷大学大学院修了 大谷大学助教授
三鬼清一郎
1935年生まれ 東京大学大学院修了 名古屋大学教授
遠藤克己
1911年生まれ 日本大学大学院修了
高埜利彦
1947年生まれ 東京大学卒 学習院大学教授
山本尚友
1946年生まれ 東京都立北園高校卒 京都部落史研究所事務局長
山上伊豆母
1923年生まれ 同志社大学大学院修了 帝塚山大学教授
吉田栄治郎
1948年生まれ 日本大学大学院修了 奈良県教育委員会
山路興造
1939年生まれ 早稲田大学卒 京都市歴史資料館長
瀧川政次郎
1897年生まれ 束京帝国大学卒 元・國學院大学名誉教授1992年逝去
川田貞夫
1937年生まれ 國學院大学卒 宮内庁書陵部首席研究官
広瀬秀雄
1909年生まれ 東京大学大学院修了 元・東京天文台長1981年逝去
渡辺敏夫)
1905年生まれ 京都大学卒 東京商船大学名誉教授
【近世日本の陰陽道─陰陽師の存在形態を中心に─はじめに 木場明志 】より一部紹介
かつて、日本陰陽道の極盛期は平安時代とされ、『今昔物語集』にみえる安倍晴明に代表される占いの達人の活躍を以てその証左といい、また、公家日記に散見する陰陽道禁忌の多彩さによって、その内容の煩雑さを述べるのが通常であった。しかし、一九九〇年七月に刊行された今谷明『室町の王権―足利義満の王権簒奪計画』(中公新書)は、陰陽道の極盛を一転して室町時代といい、足利義満主導の南北朝合一時における国家祈檮権に関わる問題であると指摘し、中世陰陽道の歴史学的意味を鮮明に描き出して注目を集めた。また一方で同じころ、巷間でも、荒俣宏による『帝都物語』(角川文庫)が映画化されて話題を呼び、陰陽道を呪術として操る「土御門家」の名を多くの人々が知るようにもなって、陰陽道への一般的関心も高まってきたと思える。
そうしたなかで、近世陰陽道は依然として、衰退期あるいは残滓固定期としてのイメージでとらえられ、近世日本の陰陽道に特有のことがらの有無を問うことにも熱心でない風潮が続いてきていたといえばいい過ぎであろうか。
近世陰陽道の基礎的研究は決して等閑にされてきたわけではなく、実に四十年以上にわたって文献を渉猟した成果をまとめた遠藤克己『近世陰陽道史の研究』(未来工房、一九八五年十一月刊)があり、特に近時は土御門家の家司であった家に伝えられた『若杉家文書』(京都府立総合資料館所蔵)などの新史料の公開がなされ、研究面での飛躍的進展が期待できる地盤が急速に整ってきている。そうした意味で、近世陰陽道研究は、宗教研究の一環であるばかりではなく、近世国家史研究、近世社会史研究、近世科学史研究に、またそこでの陰陽師研究は、地域史研究や部落史研究、宗教民俗研究などの方面に、極めて高い発展性を内包しているといってよいと思われる。
さて、近世陰陽道を理解するために、歴史用語としての「陰陽道」「陰陽師」について、日本の古代・中世・近世のそれぞれの時期における内容的差異を略記しておこう。
すなわち、日本古代の場合、律令制における中務省管下の陰陽寮において管掌されていた陰陽・天文・暦数・漏刻の四つの技術のうち、陰陽が家道化して陰陽道を形成していったと解されるが、広義には天文道・暦道をも包括する名称として『陰陽道』を扱うことができる。また厳密には陰陽寮の方技官寮の一員を指す陰陽師についても、かの『今昔物語集』の時代になると、広く陰陽道を実践する者を指す一般詞として「陰陽師」が用いられているのである。
そして、中世になると、陰陽道を担っていた中心組織である宮廷陰陽師は、武家奉仕と公家奉仕に分裂し、それらを離れて有力寺社などに、あるいは全く民間に根拠を求めて四散した場合も含めて、陰陽道は社会の広域に及んでいく。旧来的陰陽道に加えて、神道的陰陽道・仏教的陰陽道(主に修験道・宿曜道)も展開していく。また諸権門に奉仕した陰陽師は、隷属性を強めた結果として唱門師の一流となり、「唱門師」が中世陰陽師の代名詞といってよい様相をまで示すようになる。足利義満以降の陰陽道隆盛と陰陽師の高官位化を背景に、その後、近世初期までの歴史的曲折を経て、安倍晴明の末裔という土御門家によって神道的形態の近世「陰陽道」が宮廷内に再興される。
近世陰陽道においては、本所権に基づく組織的な意味での民間拡張が策された結果、ネットワーク化にある程度成功し、全国ネットの一人一人が「陰陽師」と公称される存在となっていくことにつながった。このことは、近世における朝廷権威復活の一例ともいえ、明治維新の下地を形成する歴史的意味をもつものであったかもしれない。