図録本 特別展 医は仁術 公式ガイドブック
国立科学博物館
TBS
2014年
和綴じ本
155ページ
30x18x1.5cm
※完売・絶版
江戸時代の医学をテーマとした絵図、腑分け、人体解剖図譜など非常に珍しい絵画作品を多数収録した図録本。
【序文より】
国立科学博物館では、これまで平成七(一九九五)年に日本解剖学会と百周年を記念した展覧会を、また平成二十三(二〇一一)年には第二十八回日本医学会総会との共催で企画展「歴史でみる・日本の医師のつくり方~日本における近代医学教育の夜明けから現代まで~」を開催いたしました・後者の企画展では、この年に起こった東日本大震災もあり、展示をとおして災害時の医療の在り方など、社会的に考えなければならないことがあらためて認識されましたが、これらの成果は今回の特別展「医は仁術」に繋がっております。
本特別展のテーマである「医は仁術なり」は、古くはもとより現在においても医に関わる人達の基本的な理念です。今回、この「仁」が日本においてどの様に認識され、実践されてきたかを、多くの具体的な医学史資料をもとに展示致します。展示の中心となるのは国立科学博物館が所蔵する医学史資料です。その中には、我が国最初の医学専門資料館として設立された医学文化館から当館に移管されたものや、京都の和田和代史氏が収集された和田医学史料館旧蔵資料があります。これらの資料は、江戸時代からの漢方や蘭方医学資料から現代に至るまでの医学関係史資料であり、医史的価値のみならず社会的・文化的視点からも、極めて貴重なものと評価されております。
また、本特別展は「仁」の梢神を軸に江戸から未来へと俯瞰する総合的な展示となっております。「仁」をテーマにした連続ドラマ「JIN‐仁‐」(TBS)が、現代から幕末にタイムスリップした医師の活躍を描いて視聴者の支持を得ました。このことは「仁」に対する現代的な関心の表れかとも思いますし、今日の最先端医学や医療の領域においても日本人研究者の功績が著しい、例えば、未来の医療として注目の高い「多能性細胞」の研究などにおいて「仁」の精神は脈、と受け継がれているのではないかと考えます・本特別展ではその一端として「ヒトIPS細胞」の固定標本などを展示しています。
【目次より】
第一章 病はいつの時代も、身分の貴賤なく、人々を襲う。
第二章 東から西から~医術の伝来
第三章 医は仁術~和魂漢才・和魂洋才の医
甫周書簡・玄白漢詩貼交幅にみる蘭学社中の知的世界 松田清
在村の蘭学 青木歳幸
言葉を超えて蘭学をすべての人へ 陰の主役・前野良沢 鳥井裕美子
第四章 近代医学と仁
第五章 現代の医
生命の可視化と可触化がもたらす医療の未来 杉本真樹
遺伝学の現在 二重らせんの発見から遺伝子診断まで 石川充
IPS細胞の誕生から再生医療・疾患研究に至るまで 岡野栄之
作品解説
日本の医の原点、特徴、日本の医と仁 酒井シヅ
中国・日本の伝統医学 小曽戸洋
近世日本医学における「越境」と「折衷」 ヴォルフガング・ミヒェル
日本人の人体イメージ、過去と現在 坂井建雄
現代の仁術 北村聖
日本医学史年表
【内容一部紹介】
杉田玄白の漢詩
1774年に出版された日本初の本格的翻訳西洋解剖書である解体新書により蘭学が盛んになった。
その中心人物の杉田玄白と桂川甫周の直筆書簡がこのたび発見され、世界で初めて公開される。これは玄白が蘭学発展の功績を認められ、将軍に会う事の喜びを詠った漢詩などの貴重な史料である。
山脇東洋観蔵図
1754年、日本で初めて京都所司代の許可を得て行われた人体解剖の記録図。1759年に「蔵志」として出版された。本図は山脇東洋の印「賜養寿院」がある。新発見の原図。
エレキテル
平賀源内が日本で初めてエレキテルを製作して以後、医療用のエレキテル研究は蘭学の重要分野でした。
五臓六腑生き人形
解体新書などの影響を受けて製作された漢方の(五臓六腑)人形。現存する唯一の医学生き人形と考えられる貴重な史料です。
【第一章】病は、いつの時代も、身分の貴賤なく、人々を襲う。
はしか童子退治図(和田コレクション)
歌川芳藤(1828-87)による浮世絵。現在ではワクチンによって予防が可能な麻疹(はしか)も、江戸時代には疫病神によってもたらされる病とされ、神仏の力によって防ぐことができると信じられていた。中央で眠っているのは酒呑童子(しゅてんどうじ)になぞらえられた麻疹童子。雲に乗った素戔嗚尊(すさのおのみこと)の指揮により、厩の桶・角樽などが縄によって麻疹童子を取り押さえ、刀を抜いてその首をはねようとする様子を描いている。また左下の薬種が彼らを制止しようとしているのにも、ある寓意が込められている。
大宅太郎光国妖怪退治之図
歌川国芳画。天保7(1836)年に上演された歌舞伎の一場面で、ガイコツ図は骨の数や前腕骨などが正確に描かれ、『解体新書』以降に一般にも広まった解剖図を参考にしたものであろう。
開運麻疹疫病神除之伝(和田コレクション)
歌川芳艶(1822-66)による浮世絵。中央に座る恰幅のよい人物は疫病除けに効験があるとされた牛頭天王(ごずてんのう)であり、その前に座らされているのは麻疹の神である。麻疹にかかったある人が、剣を抜いた牛頭天王が異形の者2人を追い払ったという夢をみたという逸話を記し、疫病神が牛頭天王に手形を差し出す様子を描いている。文久2年(1862)に麻疹が大流行した際に描かれたものと考えられる。
白澤之図(和田コレクション)
白澤(はくたく)は中国の想像上の神獣。徳の高い支配者に対して助言を授けるとされ、病魔を退ける力をも持つと考えられたことから、江戸時代には疫病除けの画題として広く知られるようになった。人気漫画に登場する人物のモチーフとされたことから、近年再び知名度が高まっている。
【第二章】東から西から~医術の伝来
依ト加刺得私(ヒポクラテス)之像(和田コレクション)
坪井信道(1795-1848)賛、川原慶賀(1786-?)筆。古代ギリシャの医師で「医聖」とも呼ばれるヒポクラテス(紀元前460頃-紀元前375頃)の肖像画。ヒポクラテスは呪術的・古典的な医術を脱して経験と観察からなる医療を重視したとされ、伝説上の名医としてあがめられた。また医師の倫理性を強調したともされており、その名は「ヒポクラテスの誓い」という宣誓文にも残っている。
三喜直指篇(医学文化館)
室町時代後期を代表する医師田代三喜(たしろさんき、1465-1544)の著作。三喜は遣明船に乗って中国で医学を学び、帰国後は故郷の武蔵川越を拠点に関東一円を往来して庶民の救済に務めた。三喜の教えは弟子の曲直瀬道三(まなせどうさん、1507-94)らに受け継がれ、のちに「後世派」と呼ばれる一派をなしていく。
三喜直指篇
南蛮直伝金瘡外科一流序(和田コレクション)
戦国時代にポルトガル・イスパニアなどから日本に伝わった、いわゆる南蛮流の医術書。金瘡とは外傷およびその治療法のことで、戦争が日常的に行われた戦国時代には金瘡医術が飛躍的に発達することになった。
【第三章】医は仁術~和魂漢才・和魂洋才の医
新宮涼庭薬箱
新宮涼庭(しんぐうりょうてい、1787-1854)が用いていた薬箱。涼庭は広島で古方、長崎で蘭方の医術を学び、京都に医学所・順正書院を開いた。「医は仁術なり、人を活かすを以て目的となす、仁心ありと雖も、しかして術拙ければ、則ち誤って人を殺し、仁医たるを得ず」(『鬼国先生言行録』)と、医師としての精神と技術の尊重を説いた。蘭方医術の影響を強く受けた涼庭らしく、この薬箱には医術において「自然」の「運行」を重視するという文言が螺鈿細工で刻まれている。
解剖存真図
淀藩医南小柿寧一が40回余の解剖に立ち会い完成させた解剖図。83図からなり、江戸時代の解剖図中、写実的にも内容的にも最も充実したものである。本図は残闕24図の写しとある。
薬看板黒鬼薬看板「黒鬼」(和田コレクション)
熊膽木香丸という薬の広告用の看板。熊膽(ゆうたん)や木香(もっこう)は漢方薬の呼称で、健胃や整腸、止痛などの効果がある。二つの薬を用いていることから、「鬼に金棒」をモチーフにしたものとみられるが、看板として強調したい薬の効き目の強さとは裏腹に、この鬼は困ったような、何ともいえない表情をしている。腹痛から連想される鬼とも何か関わりがあるのだろうか。
解体新書(和田コレクション)
前野良沢(まえのりょうたく、1723-1803)・杉田玄白(すぎたげんぱく、1733-1817)らによる翻訳書。ドイツ語の原書をオランダ語に翻訳したものを、さらに良沢らが日本語に翻訳したもの。図版は秋田藩士で洋画家として知られる小田野直武(おだのなおたけ、1749-80)が担当している。西洋の解剖学説の概要を日本で初めて紹介した書籍であり、蘭学興隆のさきがけとなった。
華岡青洲腫瘍図
図は、瘤、火傷で癒着した部分、体表の奇形部分などの状況を、患者の所在地、氏名、年齢などと合わせて描いているカルテのようなもの。腹部などの内臓手術は行っていない事が分かる。
【第四章】近代医学と仁
ポンぺ講義録(和田コレクション)
オランダ軍医ポンぺ(1829-1908)による講義録。ポンぺは長崎の医学伝習所で医学を講じ、松本良順(まつもとりょうじゅん、1832-1907)、佐藤尚中(さとうたかなか、1827-82)らを育てた。また「ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである」と、医師としての心構えを説く言葉を残している。ポンぺ講義録
ウィリアム・ウィリス肖像
イギリス公使館付きの医師ウィリアム・ウィリス(1837-94)の肖像画。ウィリスは1861年に来日し、幕末の激動のなかで医療活動を続け、戊辰戦争では横浜の臨時軍陣病院や東北地方の前線で傷病者の治療にあたった。その後明治政府のもとで医学教育に従事したが、政府がドイツ医学の採用を決定すると鹿児島に移り、西南戦争後に帰国した。
ほか
★状態★
和綴じ装丁本。背表紙には赤い綴じ糸が見えた状態ですが、
はじめからそのようなデザインのものです。
外観は通常保管によるスレ経年ヤケしみ、天小口および本文余白部にも経年ヤケしみがある程度、
本文目立った書込み・線引無し、
問題なくお読みいただけると思います。(見落としはご容赦ください)